いつも傍にいるキミ

 

 

―――そう、それは遠い昔のこと。

なんてことはない。

近所の野良犬にイタズラをしようとしたら、逆にあたしが追い掛け回されただけの話だ。

けど、そんな時あいつがあたしを助けてくれた。

右手に棒切れを手にして、足を震わせながらこう言った。

「―――っぼ、僕が相手だ! ナツミちゃんから離れろ!」って。

不意にも嬉しくて涙が出てしまった。

おとぎ話に出てくる王子さまが目の前にいてあたしを助けてくれると思って。

結局はまあ、ふたり一緒になって追い掛け回されたのだが。


――そう、それは遠い昔の他愛も無い思い出。

だけど、あたしは忘れない――





 橋本夏美。それがあたしの名前だ。
 かれこれ十七年、何の大事もなくすくすくと育ってきた。
 ―――まあ、胸はもうちょっと綾みたいに育ってほしいものだけど。

 さて、そんなあたしが今何をしているかというと。
「あぁ〜あ、カザミネ先生も遅刻ぐらい見逃してくれてもいいのになぁ」
 朝、寝坊し遅刻したせいで廊下に立たされているわけである。
 ちなみにカザミネ先生というのはウチのクラスの担任で、担当教科は古典と倫理。
 剣道部の顧問で、同じく剣道部に所属している深崎くんと仲がいいらしい。
 真面目という言葉がよく当てはまる人物で―――悪く言えば融通が利かないのである。
 たとえば、宿題を忘れたり遅刻をしてしまえば、今のあたしのように廊下に立たされるわけだ。

 そうこうぼやいていると、あたしにひとりの女生徒が声をかけてきた。
「あら、ナツミさん…またカザミネ先生に立たされてるんですか?」
「あっ! カイナ先輩! うぅ…酷いですよね。か弱い女生徒をこの寒い廊下に立たせるなんて」
 おどけて言っているが、この廊下はほんっとに寒い。ここから見える外側の窓なんて風の強さでがたがた言ってるし。
 その寒さはカイナ先輩も同じなのか苦笑いを浮かべながら、そうですねと相槌を打ってくれた。
 この人は三年生で、薙刀部の部長である。
 大和撫子という言葉はこの人のためにあるようなもので、品性良好・文武両道の唯一を除けば兎に角非の打ち所のない人である。
 その唯一というのは―――

 ふと、廊下の向こう側からダダダッとこういかにも爆走しています、みたいな音が聞こえてきた。
 ケルマ先生だ。先生なのに廊下を走っているのはどうかと思うが、それを口にする勇気は無い。
 というのも―――

「みつけましたわ! 貴女、よくも私の教材隠してくれましたわね!?」
「あら、カザミネ先生に年甲斐もなく色目を使う貴女が悪いんですよ?」

 こういうことになると思ったからだ。
 ふたりとも、ウチのカザミネ先生に想いを寄せているようで、それが原因かこのふたり犬猿の仲なのである。
 ―――カイナ先輩の唯一の欠点というのが此処に起因しており、どうにもこうにも嫉妬すると、他人のように怖くなるということである。
 だが、ふたりが対立しているのはそれだけではない。カイナ先輩の家もケルマ先生の家も、古くから続く良家のお嬢様であり、それも原因のひとつになっている。

 我が校の名物行事になりつつあるほどこの争いは有名で、上級生のなかにはこれを楽しみに学校に来ているという学生もいると言う。
 逆に下級生は、このカイナ先輩の変わりようにただただ驚くばかりで、あたしたち二年生だって、今頃になってようやくなれ始めたころである。

 まあ、もっとも悪いのは優柔不断なカザミネ先生なのだが。
 彼がしっかりどちらかを選んでないからこういうことになるので、乙女心から言えばカイナ先輩もケルマ先生も可哀想といえば可哀想だと思う。

「…どうかしたでござるか、橋本? ……うぐっ!?」
 あまりにも騒がしいので様子を見に来たカザミネ先生が、呻く。まあ、それもそうだろう。
 あのふたりが鋭い目つきで自分を睨んでいるのだから。
「さあ、今日こそはっきりしてもらいますよ!?」
「この小娘と私、どちらを取りますの!?」
 じりじりとカザミネ先生を追い詰めていくふたり。三人ともあたしのことは見えてないようだ。
 そういえば、さっきからセリフがないような…ま、いいか。今のうちに教室に戻っておこう。

「「さあ、どっち!?」」

 あたしは鬼気迫る二人の言葉を背に教室のなかへと戻るのであった。



「ふぅ…あのふたりが来たからには、今日も古典は自習かな」
「あはは、お陰さまであたしは廊下から逃げることができたんだけどね」
 席に戻ったあたしを迎えたのは、ため息をつく深崎くんだった。
 先述したとおり、カザミネ先生と深崎くんは仲がいい。そのためか、この件について彼も頭を悩ませているようだ。
 カザミネ先生はふたりに何処かへ拉致られたようで、結局は自習となってしまい、皆思い思いのことをしはじめた。

「まあ、僕も先生が一番悪いとは思うけどね…こうも毎日毎日あったんじゃ、流石に先生も可哀想な気がしてくるよ」
「ん〜…まあね。 ところでさ、深崎くんこそどうなのよ? 浮いた話なんて全然ないじゃない?
 女の子にモテそうな要素は色々あるのに…もしかして、あっちの人?」
 すると、深崎くんは顔をしかめて、不機嫌そうに声を固くさせた。
「あのね…どうしてそういう思考しているのかな、君は。
 ただ、今は部活に生徒会と色々忙しいからそっちに専念したいだけだよ」
 …この男、モテるという言葉は否定しなかったな。
 ま、いいか。たしかにあたしの目から見てもカッコイイとは思うし。

「あっ、でもこの間カシスちゃんと一緒に歩いてたじゃない?」
 カシスというのはあたしの幼馴染の兄妹の妹で、この学校の一年生だ。たしか、剣道部のマネージャーをしてたと思う。
 あたしによく似た活発な女の子で、可愛い娘で今では剣道部のマスコットガールになりつつあるほどだ。
「ああ、何か用事があるとかいって…買い物だったかな? それに付き合ってただけさ」
 あ〜、この男、鈍いなぁ。たぶん、カシスちゃんの方が付き合ってくれるよう頼んだのだろう。
 おそらくこの男と一緒にいたいがために。だというのに、この男は彼女のその好意を寄せているという意思表示にも気がつかない。
 ……う〜ん、他人事とはいえ、なんかムカついてきた。

「…あのねぇ。もうちょっとカシスちゃんのこと考えてあげた方がいいと思うよ?」
「…?」
 本人はあたしの言っていることが分からないようである。
 …っはぁ。どうしてあたしの周りの男どもはこうも鈍いのか。

 それはさておき。
「で、この後の昼休みだけど今日は弁当なんでしょ? どうする? 綾たちのクラスで食べる?」
「あ、悪いね。今日はそれこそカシスと一緒に食べるって約束してるんだ。
 だから、橋本さん、勇人たちに悪いって言っておいてくれないか?」
 ……なるほど。カシスちゃんも深崎くんの気を引こうと色々と手を打ってるわけね。
「りょ〜かい。 ふたりっきりの昼食楽しんできなさい」
 あたしがそう言うと、丁度タイミングよく授業終了のチャイムが鳴り響いた。




 そういうわけで、綾のクラスに来たあたし。
 樋口 綾。彼女とは中学からの親友で色々と世話になっている。
 彼女もまたカイナ先輩のように人気が高く、深崎くんと同じように生徒会に所属しており次期生徒会長と噂されるほど名高い。
「やっほー♪ 綾に新堂くん!」
「おっす。 ところで藤矢はどうしたんだ?」
「何でもカシスちゃんと一緒に昼食をとる約束してたんだって。だからまた今度にしようってさ」
「あら、そうなんですか。それじゃご飯にしましょう?」
 ふたりは了解すると、各々弁当箱を自分の鞄から取り出す。

 あっ、紹介し忘れてた。綾と同じクラスの新堂 勇人。
 彼は深崎くんと中学の頃からの知り合いらしく、綾と二年間同じクラスだ。
 バスケ部所属で溌剌とした青年で、さっぱりしている性格である。
「さて、それじゃあ籐矢がいなくて寂しいけど、いただき…」
 新堂くんがいただきます、と口にしようとしたその時、物凄い勢いで教室のドアがバスッという音ともに開かれた。
 新堂くんを除き、その音に誰もが開かれたドアに注目している。…とはいえ、皆それが誰かは分かっている。
 ―――クラレット先輩だ。
 
 クラレット先輩はカシスちゃんの義姉となる。カシスちゃんの両親は離婚して、ふたりを母親が引き取ったらしい。
 で、クラレット先輩たちの母親は彼女を産んで直ぐに亡くなって、彼女の父親は十年ほど前ぐらいに今の母親――つまりカシスちゃんたちの母親と再婚したらしい。
 よって、クラレット先輩とカシスちゃんは義理の姉妹ということになる。

 で、そのクラレット先輩だが、ある日暴漢に襲われていたところを部活帰りの新堂くんに助けられたことがキッカケで彼に想いを寄せているらしい。
 ただ、そのエピソードには先輩によって脚色されており、新堂くん本人の話によると、しつこく言い寄ってきたナンパが新堂くんに説得されて諦めさせられたというのが事実らしい。
 ともあれ、新堂くんに彼女が救われたのは事実だ。

「あれ、クラレット先輩どうしたんですか?」
 そう声をかけるは、さっそく箸を弁当箱に伸ばそうとしていた新堂くんだ。
「は――ぁ、は――ぁ…よかった、間に合ったようですね。
 あ、あの…お弁当を作りすぎたので、よかったら貰ってくれませんか?」
 そう恥じらいながら、クラレット先輩はおずおずとピンクの弁当箱を新堂くんへと差し出す。
 新堂くんはというと嬉しそうに笑みを浮かべると、それを受け取った。
「うわっ、いいんですか!? 俺、遠慮しませんよ?」
「え、ええ…ですから、昼飯ご一緒にしてもらってもいいですか?」
 綾とあたしは顔を見合わせる。先輩の行動は新堂くんが気がついていないだけで、日常茶飯事となっている。
 ならば、あたしたちがすることは唯一つだ。

「あ、ごっめ〜ん、新堂くん! あたしたちもキールたちと約束してたんだ!
 悪いけどクラレット先輩と食べてくれない?」
「すみません、この埋め合わせはきっとしますから」
 そう言うと、あたしたちはそそくさと弁当箱を持って教室から出て行った。

「はぁ、新堂くんってホント鈍感だよね」
「そうですね…先輩、あれだけ好意を表してるというのに本人まったく気付いてませんから」
 先ほどの様子を見てもらっても分かるが、クラレット先輩が新堂くんに好意を寄せているのは、他人にモロばれである。
 毎日毎日弁当を作りすぎるなんてことはあるわけがない。とすれば先輩が新堂くんに弁当を持ってくる理由はただ一つ。
 ……カシスちゃんが深崎くんを昼食に誘った理由と同じである。

 まあ、新堂くんは深崎くんに輪をかけて鈍感だから、これぐらい積極的でないと気付いてもらえないと思う。
 だから、あたしたちも席を外したのだけれど。ふたりっきりという状況ぐらい作ってあげないと、先輩も苦労しそうだし。
「…で、どうする? 本当にキールたちのところに行く?」
「う〜ん、そうですねぇ。でも、キールさんたちって今日は食堂だったような…」

 と、綾が言い切る前に、ドドドッとケルマ先輩みたく廊下を爆走している音が聞こえてくる。
 まったくこの学校にはまともに廊下を歩けるやつはいないものなのか。
「樋口せんぱーい!!」
「綾せんぱーい!!」
 そう大声で走ってくるのは一年生男子の、西郷克也くんにソルくんだ。

 ソルくんは一年生でカシスちゃんの双子のお兄さん。今の兄弟で言うと次男、上から三番目となる。
 綾に惚れこんでおり、克也くんとは恋の好敵手みたいでこうやって争う割には仲がいい。
 ぶっきら棒なくせに真面目というか実直というか。兄弟のなかでは一番しっかりしていたりする。

「お、オレと一緒に昼食しませんか!?」
「い、いや、オレと! 今日は弁当を持ってきたんだ!」
 ぐいぐいとお互いを押しのけながら主張するふたり。綾は困った表情を浮かべると、ちらりとこちらを見た。
「すみません、夏美さん。 せっかく約束してたのに…」
「いやいや、あたしはいいのよ。それよりも早くふたりを止めないと喧嘩になりかねないよ?」 
 あたしはちょいちょいとふたりを指差す。押しのけあいだったのが、だんだん過激になってきており、終いには取っ組み合いしだす始末だ。
「それじゃあ、ごめんなさい、夏美さん。
 …克也くん、ソルくん。三人で食べましょう? 教室は…ダメだから、中庭のテラスで食べましょうか?」
 するとふたりは取っ組み合いを止め、「先輩がそういうなら…」ということで綾を挟んでふたりは廊下を歩き去った。


「さぁて、どうしたもんだかな」
 頭の後ろに手を組んでふらふらと廊下を彷徨うあたし。キールは食堂だって行ってたし…あれ?
 でも、ソルくんはお弁当箱持ってたよね? キールとソルくんは食堂だって綾は言ってたけど…。
 そのとき、聞きなれた声があたしにかけられた。
「あれ、夏美…こんなところで何をしてるんだい?」
「あっ、キール。キールこそ、今日は食堂じゃなかったの?」

 キール=セルボルト。こいつこそがあたしの幼馴染にして悩みの種である。
 先ほどのクラレット先輩の弟だ。まあ、落ち着いている割にはどこか抜けているところがよく似ていると思う。
 あたしとは別のクラスだけど、いつの間にか一緒にいることが当然のことになってきて、こうしてヒマがあれば会う。
 けれど、さすがに昼食時までは邪魔するつもりはなかったのだけど。

「ああ、そうだけど、夏美の姿が見えたから声をかけたんだ」
「―――っ」
 どうしてこうもこの男は平気でそんなことが言えるのか。いや、こいつに他意がないことは知っている。
 だが、面と向かってこう言われたら「君と一緒にいたいから」と言われているみたいで気恥ずかしい。むぅ、あたしの考えすぎか?
「ああ、もうっ!」
「どうしたんだい? なんか顔が赤いけど?」
「な、なんでもないわよっ! 今、深崎くんも綾も新堂くんも用事があるからひとりになっちゃって。
 どこで食べようかなぁって思案投げ首してたところなのよ」
 すると、キールはうんと思案したような表情をすると、ぽんと手を叩いてにこにこと笑った。

「それじゃあ、一緒に食堂にいくかい? そこで弁当も食べればいいだろ?」
「ん〜、そうしようかな? 今から急げば、席も取れるだろうしね」
「「そうと決まれば!」」
 あたしたちは顔を見合わせると、全力疾走で食堂へと向かうのであった。

 ……やっぱり、この学校にはまともに廊下を歩けるヤツはいなかった。




 食堂はかなり広く、ピーク時のこの昼時でさえもカウンターから遠い奥の席は空いてたりする。
「へぇ、これ夏美の手づくりかい?」
「え? あ、そうよ。だって母さんずぼらだしね。あたしが作るしかないのよ」
 カレー定食を持ってきたキールは感心したような様子で、あたしの弁当箱を覗く。
 う〜ん、こう改めて見られると結構恥ずかしいな。

「―――一昨日、若い女性の遺体が路上で発見されました。
 まだ身元ははっきりしておらず、警察は調べを進めています。
 警察の見解によると、殺人事件とみられ―――」
 食堂に設置されてあるテレビからは無機質に思えるほど冷静なニュースキャスターの声が聞こえてくる。
「ねえ、キール。これってこの辺りじゃない?」
「あれ…そうだね。夏美も気をつけなよ。 …いくら男勝りだからって言っても、女の子なんだからさ」
「男勝りは余計よっ」
「いたっ!?」
 ムカッと来たあたしはがつんと拳骨をキールの頭の上に落とす。
「それこそキールが気をつけなくちゃ。だいたい、小学、中学といじめられてたキミを助けてきたのはあたしでしょ?
 ただでさえ、頼りないんだからしっかりしてよね」
 ふんっとあまり豊かではない胸を反らして主張する。ほんっと、コイツったら人の心配ばかりして自分のことはいつも後回しなんだよね。
 人が良いことをいいことにつけこまれて、よく他人に騙されてたり利用されてるんだよね、コイツ。
 本人に自覚がないからなおさら性質が悪い。…だから、いつもあたしがフォローしてあげてるんだけど。

 あれはいつだったか、キールたちが外国人だっていうだけでいじめられてたっけ。
 まあ、あたしはそういう陰湿なのが嫌いだったから偶然いじめっ子グループに入ってなかったんだけど。




 
「ねえ、アンタたち、いい加減に止めなさいよ」
 何がキッカケだったか、あまりに陰湿すぎてさすがのあたしも堪忍の緒が切れちゃったんだよね。
 あいつもいじめっ子たちも目をまん丸させてあたしを見てたっけ。
 まあ、今まで静観を守ってたんだから、こうも急にキレられたら驚きもするよね。

 で、ようやく我に帰ったいじめっ子たちのうちのひとりがお約束どおりあたしに怒鳴ってきた。
 「あぁっ!? お前、コイツの味方すんのかよ!」
 「別に。でも、あんたたちのやり方は気に食わないよ。男ならもっとすっぱりした方法でやるんだね」
 もっとも、すっぱりしたいじめのやり方なんて、あたしも知らないけど。
 今でもそうだが、あたしは男の友情ってものに憧れてる。だから余計にそのやり方が気に入らなかったんだと思う。

 「…テメエ!」
 ことあろうにかそいつは女の子であるあたしに殴りかかってきた。
 まあ、小さい頃だったからそんな分別お互いになかったんだろうけど。
 まだ二次性徴も始まってなかったから、そんなに力の差があるわけじゃなかった。
 けれど流石に男の子というべきか、思い切りあたしの腹部にクリーンヒット。
 ま、これにはあたしもぶちぎれちゃって。取っ組み合いの喧嘩になって、結局は先生が止めるまで続いたっけ。

 で、その喧嘩のあと、アイツはこんなことを言ってきた。
「ね、ねぇ…だいじょうぶ?」
 大丈夫なわけがない。髪を引っ張られたり、腕を噛まれたりしたんだし。幸い出血とまではいかなかったけど。
 でもあたしよりもアイツのほうが精神的に深い傷を負っていることは、幼いながらもその時のあたしでも分かった。
 だから、気がついたらこんな言葉がついてでた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。キミも男の子だったら体鍛えた方がいいと思うよ。
 で…キミ、なんていう名前だっけ?」
 助けたはいいものの、同じクラスだというのにすっかりアイツの名前を忘れてた。
「キール…キール=セルボルト」
「そっか。あたしは橋本夏美。よろしくね、キール」
 そう言って握手を求めて右手を差し出すあたし。
 あいつは少し困惑したような表情を浮かべたが、直ぐにあたしの手を握ってくれた。
「よ、よろしく。…名前は知ってるよ。同じクラスでしょ?」
 そうだった。相手の名前を知らなかったのは自分だけだったか。

 …まあ、そのあと、ふたり仲良くクラスの連中にいじめられたり、からかわれたりしたっけ。
 今でもムカつくけど、今はいい思い出と無理矢理思い込んで胸の奥にしまっている。


 まあ、それからあたしたちの付き合いがはじまったわけだ。
 その後もその気質のせいか、キールはよくいじめられていた。
 この学校でもそのいじめは続くのかなと思っていたけれど、それはなかった。
 まず流石にみな精神的に成長したということ。
 高校までいじめをしているヤツはみな子どもだって知ってるし、分別もついている。
 次に、新堂くんという親友を手にいれたことだろうか。何にせよ、状況は好転したと思う。

 ま…そのせいで、あまりキールがあたしに構ってくれなくなったんだけど。
 ―――って、あたし、何寂しいみたいなこと言ってるんだろ!?
 別にキールが誰と付き合おうとも構わないし、あたしとはただの幼馴染なだけだし!


 

―――そうやってまた自分を誤魔化してる




 
「…夏美?」
 キールがあたしに声をかけて現実へと引き戻す。あ、ついぼうっとしちゃってた。
「あっ、ごめんごめん! 何の話だっけ!?」
 慌てて何を話しているのか思い出そうとするが、慌てすぎてまったく出てこない。
 それを見てキールは呆れたのか、ため息をついて首を左右に振った。
 うぅ…あたしも人のこと間が抜けてるって言えないなぁ。
「だから夜道歩くときは気をつけてってことだよ。さて僕のクラスは次、移動教室だから先に帰るよ」
 アイツは、自分の食べ終わった食器を盆に載せると席を立ち、颯爽と食器を返しに行ってしまった。
 いかんいかん。あたしもさっさと食べないと次の授業に遅れちゃうよ。
 あたしだって一日に同じこと―遅刻で怒られたくないしなぁ。




「橋本せんぱーい!」
 そうやって駆けてくるのは、部活の後輩の日比野絵美ちゃんだ。
 克也くんとは幼馴染らしく、よく(痴話)喧嘩をしているのをよく見かける。
「ん、絵美ちゃん、ご苦労様。あとはもう片付けだけだから、先にあがっていいよ」
 よしよしと絵美ちゃんの頭を撫でるあたし。うーん、仔犬みたいで可愛いのよね、この娘。
「い、いえ、その…克也のヤツ見ませんでしたか? 今日部活に迎えに来るって言ってたのに、アイツ」
 ほほぅ、そう言うことか。
「うむうむ、下校ついでにデートかのぅ? 愛いやつじゃのう、おぬしも」
「や、やめてください! そんなんじゃないんですってば! …だから聞くの嫌だったんです!」
 ぷんぷんという擬音が聞こえてきそうなほど、頬を膨らます絵美ちゃん。ううん、やっぱり可愛いなぁ〜。
「うふふっ、冗談はさておき、克也くんはまだ部活だと思うよ? 新堂くんが今日は部活が遅くなるって言ってたし。
 だから第二体育館に行ってみたらどうかな?」
「あ、そうですか! ありがとうございます!
 自分から言い出しておいて仕方がないなぁ、アイツ…仕方がない、迎えに行ってやるか」
 むぅと悩む仕草を見せたあと、絵美ちゃんはそれではお先に失礼しますとお辞儀して帰ってしまった。

 静かな体育館。今残っているのはあたしを含めて数人しかいない。
 もう既に外は日が落ちており、真っ暗だ。
 昼の活気のある学校とは打って違って、夜だというだけでかなり雰囲気が異なってくる。
 静かだけれども、どこか寂しく―――そして怖い。
 まるで世界でひとりだけ取り残されたかのような感覚。
 いや、現実としてそんなことはないのだけれど、この世界はとても冷厳だと思う。




 着替え終わったあたしはさっさと帰る用意をして、家への道をとぼとぼ歩いていた。
 そんな中でも思うのはアイツ――昔から付き合ってきた相棒のこと。
 つい最近までは、異性だとか関係なく本当にそうとしか思っていなかった。

 だけど、だんだんアイツが男らしくなっていくに従って、そう思えない自分がいた。
 時たまあたしをドキッとさせるような仕草をするし、魅力的になっていってると思う。うん。
 そのせいか、今まであたしがアイツを守っていたのにそれが急に逆転してしまったかのように思える。
 それはそれで寂しいのだが、やっぱり一人前の男になりつつあるアイツを見てると、まるで自分のことのように誇りに思える。
 でも、そこで気がついたのは自分が果たして女として魅力的かどうかということだ。
 綾みたいにスタイルはよくないし、性格もさばさばしてて今日もアイツに男勝りだって言われたぐらいだ。
 
 まあ、自分の気持ちに気付かないふりをしつづけてきた代償かもしれない。
 本当はいつだってアイツのことを見てて、心配して、一緒に楽しくやってきた。
 だからいつの間にか―――好きになってた。
 その気持ちに気付かないようにしていたのは、今の関係が崩れるのが怖かったからかもしれない。
 だって、もしキールにそういう気持ちがなかったら、今のままではいられない。
 
 そんなの、嫌だ。

 でも、アイツが他の女の子と付き合うていうのも嫌。
 だけど、どんどんアイツは魅力的になっていく。あたしじゃなくても、アイツの良さに気付く女の子はいるはずだ。
 我がままだと思う。だから、今まで気付かない振りをしてたんだし。
 
「あぁ〜あ、もっと早くに気付いてたらな…」
 カツンと路肩に転がっていた小石を蹴り飛ばした。
 からんころんと乾いた音を立てて、小石はアスファルトを転げていく。

 もっとアイツと楽しいことを一緒にやりたい。
 もっとアイツと一緒にいたい。
 もっとアイツと一緒になりたい。

(…いやいや、まてまて。最後のは流石に早すぎるって)
 転がっていく小石を見つめながら、あうーと真っ赤になった自分の顔を手で覆う。
 もしかして欲求不満かなと思う。
 たしかに精神的に一緒になりたいというのもあるが――あーその、アイツの温もりも欲しいと思ってる。
 どうしてかは分からないけど…あたしって意外に人一倍寂しいのかな?
 だから、アイツの温もりを感じていたいと思ってる…のかもしれない。

 とにかく、今更女の子らしく振舞うのも、自分の性には合わないと思う。
 ましてや、自分の気持ちをアイツに告白するなんてもってのほかだ。

 いつもあたしの影に隠れてたアイツ。
 人一倍他人を心配するくせに、自分のこととなると無頓着になるアイツ。
 
 アイツの良さはあたしだけが知っておきたい。

 ―――これが独占欲というものなのだろうか?



「ん……?」
 そうやってあれこれ考えながら歩いていると、あたしの視界の隅に地味なコートを着た人物が見えた。
 あからさまに怪しい。もしかしてあの人が昼間のニュースで流れていた殺人事件の犯人なのだろうか。
(バカみたい)
 そんなわけがない。
 罪を犯した人間が人通りが少ないとはいえこんなに堂々と道を歩いているとは思えない。
 
 あたしはそんな妄想を振り払って、真っすぐ道を歩く。
「なあ、嬢ちゃん」
「!」
 突如そのコートの人物にがっと力強く肩を掴まれた。あたしは思わず驚いてそれを振り払って、身構えた。
「あ、あのなんですか? 道を訊くならここから真っすぐ100メートルほど行った先にありますから」
 びくつきながらも、その人物に問いかける。
 やばい。
 直感がそう告げる。早く逃げないと――――
「――――っ!」
 あたしは身体を反転させて、来た道を駆けて逃げた。肩越しに後ろを覗いてみると、予想通り追いかけてきていた。
 恐怖で声もあげられない。救いを求められない。ただあたしができるのは逃げることだけ――

(助けて―――!)

 気がつくと、狭い路地を走っていた。
 どうせ逃げるのなら人目がつく大通りに逃げるのが正しいと言えるが、混乱していたのかあたしはまったく逆の選択をしていた。 
 その選択は間違いなくあたしに不利な状況を運んできた。
 目の前は行き止まり。周りにはひと気はない。おまけに夜だから視界が暗くてよく見えない。
 
 ――――追い詰められた。

 そう思ったときは既に遅く、振り返ってみるとそこにはナイフを握り締めたコートの男が立っていた。
「フゥ…フゥ…!」
 あきらかに息遣いは常人のそれではない。一歩後ろに退くが、後ろは壁。行き場があるわけがない。
 恐怖で身体が硬直してしまう。
「さあ、嬢ちゃん、こっちにおいで…!」
 イヤだと首を振るが、男はその意志を無視して一歩一歩獲物を追い詰めるように近寄る。
「ぁ――あぁあっ…!」
 あまりの怖さに腰が抜けてしまい、逃げるどころか動くことさえできない。
 そして、その男はあたしに覆いかぶさり――――

(助けてっ…! キール!)

 心の中でただひとりに助けを求める。あの時、あたしを救ってくれたみたいに、今度も助けてよ―――!


「はぁ、はぁ―――」
 男は遠慮なくあたしの肌を触りまくる。嫌悪感がこみあげてくるが、女の、しかも竦みあがった状態で抵抗できるわけもない。
「嬢ちゃん、何もこわくないからね―――」
(バカ! 今まさに怖いって!)
 でもそれを口にすることはできない。男の手で口を押さえられているというのもあるし、自由だとしても恐怖で声にならなかっただろう。
 そしてその男の魔手があたしに延びようとしたその時―――
「ぐぇっ!?」
 男は奇怪なうめき声とともに、コートごと何者かに掴まれ後ろに放りなげだされた。
 そしてその何者かはあたしの前にかがみこんで手を差し伸べてくれた。
「大丈夫か、夏美!?」
「き、きーる…? き、気をつけて! そいつナイフ持ってるよ!?」
 なぜ彼がこんなところにいるのか考える前に、あたしはアイツに注意を促した。
 アイツはああ分かったと頷くと、アイツもまたブレザーのポケットからペーパーナイフを取り出した。
 そして、男と向き合う。なぜだか、いつも見てきたキールのその背中はとても頼もしいように見えた―――


 

―――そう、それは遠い昔のこと。

なんてことはない。

近所の野良犬にイタズラをしようとしたら、逆にあたしが追い掛け回されただけの話だ。

けど、そんな時あいつがあたしを助けてくれた。

右手に棒切れを手にして、足を震わせながらこう言った。

「―――っぼ、僕が相手だ! ナツミちゃんから離れろ!」って。

不意にも嬉しくて涙が出てしまった。

おとぎ話に出てくる王子さまが目の前にいてあたしを助けてくれると思って。

結局はまあ、ふたり一緒になって追い掛け回されたのだが。


――そう、それは遠い昔の他愛も無い思い出。

だけど、あたしは忘れない――

 




「ん……」
 どうやらあたしはキールが助けにきたという安堵感からか、しばらく気を失っていたようだ。
「―――気がついたかい? どこも怪我はないよね?」
 いつもどおりの穏やかな笑顔が、あたしの顔を覗きこんでおり、その月明かりに照らされる彼の顔は、いつも以上に凛々しく見えた―――って、もしかして今あたし、キールに膝枕してもらってる?
「きー……る…?」
 うわぁ恥ずかしいと思う前に、そこへ確かに彼がいることに対して安心を覚えた。
 だから、そこから起きのけるでもなく、ぼっと顔を赤らめるのでもなく、ただただぼろぼろと涙を流してた。
「…っく、ひぃっ…ううぅ…きーるぅ…!」
 怖かった。本当に怖かった。だって、本当に襲われたんだもん。泣くなって言う方が無理ある。
 だから、恥じも外聞も捨ててあたしは泣き続けた。
 そしてアイツはあたしを包み込むような優しい声で慰めながら、あたしの両手を握り続けてくれた。
「もう、大丈夫。今は僕がずっと傍にいるから―――大丈夫」
 優しいくせに力強い言葉。なんだってコイツはこんなにもカッコよくて強いんだろう。

 こんなにいい男、あたしじゃなくても惚れるに決まってる。


 やっぱりコイツはあたしの王子さまだ。

 あの時も、今回も、ピンチのあたしを救ってくれた。


だから、あたしは願う。

コイツがこれからもあたしの王子さまでいてくれることを―――









 数時間後、まだあたしは泣き続けていた。
 ひと気の無い公園のなかふたりっきりだというのに、やっぱり人に泣きつくというのは恥ずかしい。
「きーる…きーる…ぅ」
 ひたすらあたしは彼の名前を呼ぶ。確かにそこに存在()ることを確かめるように。
 ぐずぐず泣きながらもようやく落ち着いてきたのか、あたしは少しずつキールに質問する。
「…っすん。 なんでキール、あそこにいたの?」
「あまりにも帰りが遅いからっておばさんから電話があったんだよ。
 それに昼間のニュースのこともあったし、心配になって探してみたら…案の定だよ」
 こんな寒いなか、キールはあたしを探してくれたんだ。どこかで暢気に遊んでたかもしれないのに。
「それで…あの男は? ナイフ持ってたんだよね…?」
「ああ、僕も危険だと思ったけど、そこで引いたら夏美がいるしね。取っ組み合ったら案外すぐに観念してさ、あとは警察に通報したよ」
 と、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。
 あ、パニックで気付かなかったけど、携帯電話で助けを求めればよかったんだ。
 つくづく、自分の行動の愚かさに呆れながらもあたしは続きを聞く。

「ちなみに、あの男はあの事件にはなんら関係なかったらしい。ただの強漢だった」
 殺人鬼なら危なかったかもねとふうと大したことなさげに肩を竦めるキール。
 それでもふつう怖くない?
 そう訊いたら、アイツは笑顔でこうのたまった。
「ああ、怖かったよ。でも、夏美が襲われてるのに何で逃げることができるんだい?」
 と逆に質問されてしまった。


 なんというか、今更だが―――本当にあたしはコイツに惚れてしまったらしい。


 だから今なら言える。自分の本当の気持ちを。


―――キール。あたしは世界で一番あなたのことが大好き!
 あなたはあたしだけの王子さまでいてくれる?」




 その時、どんな顔をしていたのかあたしは覚えていない。
 だけど、きっとキールのことだ。顔を真っ赤にして硬直してたに違いない。

 そして、その返事は―――こうして今彼の温もりを感じているのだからその答えは決まっている。

「その答えはYESだよ、夏美」





あとがき

ということで初めてキルナツメインのSSを書いてみました。某所への投稿時とタイトルが違っていたり、例のコーナーがなかったりするのはご愛嬌ということで。

投稿時に下さった感想がラブラブで見ているほうが恥ずかしくなる…ということだったんですが、いかがなもんでしょう? むぅ、そこのところはあまり意識してなかったんですが、いつの間にかこういう感じになっちゃいまして。

個人的にはもっとナツミがキールを押していく感じにしてもよかったんですが、それだと、キールが天然鈍感のままで終わりそうになっちまったので、ナツミ乙女モードに入りました。

今度機会があれば同じ設定でほかのCPを書いて見たいなと思ってたりします。

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